昭和五十一年 五月二十四日 朝の御理解
御理解第九十三節「氏子は神の守りをしておる者を神と心得て参詣する。守りが留守なら、参詣した氏子は、今日はお留守じゃと言おうが。神の前をあけておくことはできぬ。万事に行き届いた信心をせよ。常平生、心にかみしもを着けておれ。人には上下があるが、神には上下がない。人間はみな同じように神の氏子じゃによって、見下したり汚がったりしてはならぬぞ。」
お取り次ぎをさせて頂く者への、まあ御教えだと思います。いうなら取り次ぎ者の心掛けであります。今日のこの御理解を頂いておりまして、今はどこにあるかというと少し飛躍した考え方かもしれませんけれども、真実氏子を救いたい、助けたいという親神様の思いが伺われます。せっかく救いを求めて大広前にやってくる、その折角救いを求めてやってくるその氏子の一人一人がどうでもおかげを受けてもらわなければならない助かってもらわなければならない。そのためには氏子がお参りをしてよかった、おかけを頂いてよかった、有り難かったというて帰らなければならない私は責任のようなものが取り次ぎ者にはあると思うです。だからどうでもいうならここの御理解は私としても御道の教師に対して下さったのでしょうけれども、その神意のもう一つ向こうを思うと一人でも多くの信者、氏子が助かることを願ってです、お参りをしてくる、大広前には誰もおんなさらん、それだけでも信者はがっかりするという、もうがっかりしたんでは実は助からんのです。おかげを頂かんのです。本当にしら真剣ないうならば取り次ぎ者の祈念、取り次ぎを受ける。ここで皆さんが毎日一人二人そういう人があります。私がここに座っておりますと、はあ親先生に座っておって頂いたというだけでそれだけでもうおかげ頂くという感じがする。もうそれこそお願いをせんならんことはもうなくなってしまうほどに有り難いと思う。それはんなら例えばここが留守であったり、私がここに浴衣がけとか、寝間着がけで座っておったんではそんなものは与えられないと思うですね。まあどうしたろくそなか先生じゃろうかと来たなりに思うでしょう。そう思うたらおかげにならんです。心に砥石をつけてと言われるが、真実私は取り次ぎ者というものは本当に上下つけたようなきちっとした内容も外側もいると私は思うです。
先日の研修の時にね、私はここの先生方に話したんですけれども、決しておしゃれをせろと言うのじゃないよと、けれどもなるほどね、人から見られてなんとはなしにきちっとした、ね、先生。まあいうならば有り難い先生、心もだろうけれども形の上にも髪の結い方一つにもです、ね。前にこうやって家の加代子さんが前の方を切り株(おかっぱ)のようにしとった。額を上にさあっと上げてからしとりますもん。加代子さん、あんたそれが一番いいよと、そりゃもうこうパーマかけた婆しゃんの先生のね、おんなさるでしようが。もうそれだけでも何か助からんごたる感じがしてそげなんとじゃ助からん。 やっぱり先生らしいきちっとしたいうならば姿勢というか態度といいますかね、昨日話をしましたこの阿倍野の伊藤先生なんかはもう今頃にはそれこそ何十年前に初めてお参りした時にははあどこのお方じゃろうか、大変なお徳を受けてある、上の方へスーッとこう結い上げられてね、つんぐり髷しておられる。もう清楚の中にです、なんか毅然としたもの。ね、私はこの黒衣の下の肌着に必ず白の肌着を着るんです。私はある時ご本部参拝する時に金光様がやっぱりこれと同じ肌着を着ておられたです。本当こう黒衣に身を固めておられるその一番肌着に白いのがチラッと見えたらもう実に神々しいすがすがしいまでに感じたんです。大体これに白い襟をつけたのをはますけどもあれはね、ベロッと出たのは実におかしいです、白襟。だから私はもう見えるか見えない位に肌着に私は着るです。これは私が金光様を拝ませて頂いた時にです、その肌着が何とも言えん素晴らしい清らかなというかすがすがしいものを感じたから、以来私はこんなのをたくさん作って毎日これを代えよるです。
だからおしゃれじゃないんだよと、ね、取り次ぎさせて頂く者はそういうところにもやはり心を使い、心を砕かなければいけない。というてお話ししたことでございましたけれどもです、ならそれはどういうことかというとです、ね、どっかのその例えばなら遊び手のごたる格好をしてござったり、ね、またろくそなか格好をしてござったりして、まあ家の先生はろくそなかと言ったような、例えばここでですよ、しまの着物ども着てから箱帯びどんしとったら、ね、粋な先生じゃあると言われても、有り難い先生にはならんです。だからそういうこと一つにでも心を使わせて頂かなければならないということはです、人が助からなければならないということです。だから神様のこの御理解のもう一つ向こうにはです、氏子が助からなければならないということにあるのです。ために神の前をあけるなとこう言われる。ね、上下をつけたような心でおれと。
どんななに例えばね、身なりやら器量やらで氏子のいうならば上下をつけてはならい。神様の氏子としてどんな人でも助からなければならない、色が黒かろうが白かろうが助からなければならないからであります。ね、だからそういう心掛けを取り次ぎ者にお話しになっておられるのが御理解になっておりますけれども、そのもう一つ向こうには氏子が助からなければならないからということにあるのです。
私今日は御神前で『大きなアワビがもう水々しいそのアワビ貝ですね、アワビ』を頂いた。もうそんなに見たこともないような大きなアワビです。これは今日はどういうような御理解を頂けるだろうかと思うたらここんとこを頂かしてもろうたがです、これは神様のお心、ならこういう御理解をこれは信者一般ではなくて取り次ぎ者に対する御理解だというのではなくて、取り次ぎ者に言うておられる心掛けというようなものがです、それが信者氏子の一人一人がです、どういう人でも助からなければならないから、お参りをしてきてはあお参りをしてよかったと言うたり、思うたりさせて帰らなければならないからであります。問題はだから氏子が真に助かることのために取り次ぎ者に対する一つの、ね、こういう心掛けでおらなければ助からんぞとこう言っておられるのです。そこでお互いが助からなければならない。私は天地の親神様のお心というのは今日私が御神眼に頂いた大きなアワビを私は頂いてです、これが神様のお心であろう、世界総氏子と言われるたくさんな自分のやはり子供としてお考えになっておられるけれども、その中の幾人かがただ親神様だと親だと言っておるだけであって、もう世の中のほとんどの人は知りもしない、天地金乃神様なんて。親神様の思いは節だけれどもです、だからいつも親神様にそれこそ磯のアワビの片思いをさせておるということになります。
あれも助からなきゃならん、これも助からなきゃならんと思うけれども、神様はそれこそ千々に砕いてそれこそ思い焦がれてござる、ところがこちらの方がその思いにならない、知らん顔しとる。そういう中にあってです、もうそれこそ億か万かの中のたった一人がです、たまたま教会を訪れる、救い求めてやってくる。もうそん時の神様のお心というものはもう胸がドキドキするように御思いになっておられるのではなかろうかと思います。ね、自分の思いを打ち明けられる、思いよることの交流が出来るようになる。そこから本当の合楽が生まれれてくるんだ、本当の良いものが生まれてくる。それに何ぞやせっかくお参りをしてきたけれども、取り次ぎ者は裏にども行っておらじゃった。あら、今日はお留守じゃと思わせる。
私はある教会にある御信者をお導きしてた。ところがその教会長先生が大広前のここんところのところにね、(お取り次ぎの間のしきり)その一段高いお広前とお取り次ぎの間の高いところにお神様の方に尻向けて、腰掛けてこちら向けて腰掛けておられた。私共がそうして参って、はあ大坪さん、あんたの話を聞くよるなら金光様はそうにゃ有り難い事あるけど私はあれ見たら絶対参らんというた人がおりましたよ。もちろんそこの先生はちょっとおかしな先生でしたからでもありますけれどもね。もう私はぞっとしたち言う。浴衣かけてそこに腰掛けてお広前の方をこうして見とった、たまたま、ね。もうあんたの話を聞きよったら有り難くなるばってん、もう私はあげなん先生なら絶対参らんばのと言われたことがありました。
お参りしただけで、本当にあちらの先生に何とはなしにひかれる、まだよくは分からんけれども何とはなしに、いうならば先生にひかれてお参りをする位な取り次ぎ者にならなければならないと私は思うです。ね、それは決して器量がよいとか、態度がということじゃないのですけれども問題は芯ですけれどもです、ならそういう形の上にでも私共取り次ぎ者が心掛けなければならない、なぜかというと助からなければならないから。救いを求めて、ね、お取り次ぎを願う。それこそ神様がどんな節なるそれこそ思いで人間氏子のことを思うておってくださってもです、それはそれと気づきもせず知らん顔しとる。神様は千万無量の思いで、いうならば焦がれてござる。たまたまお参りをしてきたその氏子をです、もうそれこそつかまえてもう離さんぞというような思いでおられるのに、初めて参った時にもうあげんところには参らんちいうごたることでは神様は助かんなさらん、もちろんそれでは救い助かりを求めてせっかく来ておりながら、それをなら助かることもできないということになります。
私は今日それを神様がね、いうなら無量の思いで私共氏子一人一人の上に焦がれるような思いでおられるということは、神様にどのくらいの片思いをさせておるかということを感じさせてもらいました。ね、いうならまた例えばたくさんの信者があるとしましょうか。けれどもです、その神様のお心に添おうとしない、ね、焦がれてござるその思いに対しましてもです、いうならば、ただ自分さえよかればよかと、神様のことやら考えないといったような信者がまたどれだけたくさんおっても、これは神様にいよいよもってはがいい思いをさせるだけではなかろうかと思います。
歌の文句の中にこんなのがあります。「立田川 無理に渡れば 紅葉が散るし 渡らにゃ聞かれぬ鹿の声」と。もう心はお広前に飛んでる。けれどもそこに色んな事情があったり、または信心のない例えば主人とか家内とかが、もしそれを引き止めるようなことをする。ね、本当に恋い焦がれてござる神様の声を聞くためにはです、ね、こちらも焦がれておらなければならない。何をおいてもどういう障害を乗り越えてでも、やはり紅葉が散るのをいとまずに渡らなければ神様のお心に触れることはできないというのです。もうあれがあげん止めるから、まあ神様も御承知じゃろうこげん忙しいことは分かっとんなさるから。もうそれこそ、どんなに忙しかろうがどんな事情があろうが、ね、ちょっとお目にかからなければおれない、私はそういう信心の情熱というのはそういうものだと思う。その情熱が神様と通わないはずがないのです。
「鐘が鳴るのか、撞木が鳴るのか、鐘と橦木の間がなる」ね、大きな吊り鐘、あっただけじゃ鐘は鳴らん、橦木だけでもでけん、鐘でけでもでけん、橦木というのはあの木のことを橦木と言うですね。鐘撞き堂の中に横に木がぶらさがっとる、あれが橦木。橦木と鐘の間が鳴るという。神様だけでもどうにもでけん、氏子だけでもどうにもでけん。ただそれも遠くから眺めとるような信心じゃでけん、側に寄らせていただいてです、ね。いうならば合楽のおかげを頂かせて頂くところの信心が願われるわけであります。ね、本当に神様あなたのおかげで今日このような極楽の状態に住まわせて頂いております、いやあ、お前達が一生懸命なったからだ、いいえ、神様あなたのおかげで、あなたのおかげで、あなたのおかげでと言い合うその中におかげがあるのです。ね、鐘と橦木の間が鳴るのです。そういう間の音色を出させていただくような信心にはです、私共が神様に片思いをさせてはならない、いうなら相思相愛というような状態の中から良いものが生まれるのです。寝ても覚めても金光様、いうなら寝ても覚めても忘れられない。
「思い出すよじゃ惚れよがうすい、思い出さずに忘れずに」という、ね、いうなら今日は都々逸の文句を三つみなさんに聞いて頂いた。そして今日の私はご理解の、いわばこの表面に出ておるもう一つ向こうの神様の心を聞いて頂いた。もちろん取り次ぎ者に対する御理解でしょうけれどもなぜなのか、なぜこういう注意をなさっておるか、心掛けを言うておられるのか。それは参ってきた氏子の一人一人が助かってもらわなければならない、助かるということは、神様との間に真実交流ができるような中にならせてもらわなければならない、取り次ぎ者はそれを取り次ぎ取り次がれる、いうならば仲立ちのようなものである。神の前だちと言われております。神様と人間氏子を取り結ばせて頂く役目をするのが取り次ぎ者、その取り次ぎ者にはこういう心掛けがいるんだぞと言われる心のもう一つ向こうには、氏子が助かってもらわねばならんからどうでも教会に一歩足を踏み入れたら最後、どうでも助かってもらわなきゃならない。しかもただの助かりではない、神も助かり氏子も立ち行くという助かりにつながっていかなければならない。それにはどういう信心をさせて頂かなければならないかということを聞いて頂いた。ね、「立田川 むりに渡れば紅葉が散るし渡らにゃ聞かれぬ鹿の声」である。「鐘が鳴るのか橦木が鳴るのか鐘と橦木の間が鳴る」その間がなるほどしのおかげを、音色を聞きとらせて頂くようなおかげを頂くためにはそれこそいつも私の心の中には金光様がある。「思い出すよじゃ惚れよがうすい、思い出さずに忘れずに」ということになるのです。
今日のこの御理解の真意ではないかもしれません。けれどももう一つ向こうの方には本当の神様の真意は氏子が助かってもらわなければならない、片思いの神様の思いをです、思い思われる中に神様と私共の中が育っていかなければいけないということを聞いて頂きましたね、どうぞ。